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september 2009 posts

2009.09.28

恋愛が不要な時期

今は別に女は要らないや、男は必要ないわと思う時期がある。

それは他に打ち込んだり頑張ったりする事がある時に起こりやすい。
そちらを優先するのに邪魔になると言う考え方に由来しているのだろう。

それは経験から知っているのかも知れない、いや知っていると言うより恐れていると表現した方がいいかも知れない。

そう言う場合でも、ふとした時に誰かそばにいて欲しいとか、安らげる相手が欲しいとか思うことがあるはず。
しかしそういう時だけの恋人なんて存在しない。
お互いが全く同じようなタイプであったとしても、そのタイミングまでぴったし同じである事はまずありえないからすれ違う事は想像できる。

しかしだからと言って恋することを忘れてしまえば、その先に恋愛をしたくなった時に支障をきたす。

例えばゴルフをしていた人がその時間や興味を他の事に奪われたとして、再び始めようと思った時には練習に行ったりすることで勘が取り戻せる。
またやってみようとさえ思えば始められるのである。

しかし恋愛はそうはいかない。
恋愛には練習も無ければ、道具も無い。
しかも一人ではできないからなおさらとなる。


だから自分がそういう恋愛無用の時期にある場合でも恋はしておいた方がいい。
薄っぺらな恋をしろと言うのではなく、恋する気持ちの心地よい感覚を忘れずにいる事が大事と言う意味である。

もちろんいざ恋愛がしたいと思った場合には相手が必要なわけではあるが、恋する気持ちを忘れないでいると本当に相手のことが好きなのかどうかの判定がしやすい。
つまり自分の気持ちがわかるということだ。


恋するだけなら相手に何も要求しないし、自分が煩わされる事も無い。
四六時中つねに思い続けることもないし、拘束される事も無い。

恋愛は一時休止しても、恋する気持ちは継続している方が間違いなくいいはずだ。


2009.09.25

迷いの放棄

恋愛に対する考え方、捉え方がすべて楽観的にアグレッシブがいいとは言わない。
度を越えると自分本位のストーカーになるかもしれないから。
しかしそれは極端に言えば100%を越えてしまっているから異常という事態なのだろう。
だから100パーセント迄はいいのではないか。

告白することに躊躇する事は誰しもある。
迷って考えすぎて止めてしまう人、だめだった場合の事を考えて諦める人、彼女や彼がいたらどうしようと悩む人。
それらはすべて自分の想像に過ぎない。

良い結果の事だけ考えれば、結果が悪かった時に落ち込みが激しいのも間違いではないだろう。
良い結果を考えるのがアグレッシブなのではない、それはご都合主義である。
告白しなければどちらの結果も生まれない。
しかしそれは結果が怖いから学校のテストを受けないというのと同じである。
テストの結果は出ないが放棄すると落第だろう。

告白もあれこれ考えていても悶々とした日が長引くだけで、どの道決行しなければならない時が来るのだと思えば、早くした方が後が楽に違いない。
夏休みの宿題みたいなものだね。

しかしタイミングと言うものもある、それは機が熟しているかどうかだろう。
その事と相手に彼や彼女がいることとは違うし、結果を恐れすぎる事とも違う。
タイミングとはただ単に二人の距離の問題である。

ただひとつ、告白しない方がいい場合もある。
相手の立場や自分との関わり方など、環境や状況が恋愛関係となっては苦痛や苦悩を生むのが目に見えている場合である。
こう言うと俗に言う不倫だなと早合点するかもしれないが、その一言では括れない。
もっと複雑なしがらみや、単純であっても、いい結果を生まないのが明らかな場合もあると言う事だ。


それでも強行するならそれ相応の覚悟がいる上に、その覚悟を先まで決して忘れない事である。

2009.09.22

恋愛の仕方って何だ?

恋愛の仕方がわからないと言うのをよく聞く。
それを尋ねられると「そんなものはない」と必ず答える。

恋愛はお互いが好きあい、惹かれあうことで始まる。
それをお互いが壊さないように心がける事で続いていく。

自分の気持ちが維持できても、相手の気持ちが維持されなければ恋愛と言う形を成さなくなる。
それには相手の気持ちを常に考えることが必須となる。

それができればすべての言動に思いやりや尊敬や安心感が生まれる。
そうするとお互いが癒される。
それだけで十分に恋愛と言える、だから恋愛の仕方と言う型はない。

人はそれぞれ感じ方や受け止め方が違う。
ある相手によって好まれた事が、違う相手では不快に思われることさえある。逆に嫌われた事が相手によっては喜ばれる事もある。

自分の好きな相手のそう言った性格や好き嫌いを読み知るのは基本中の基本だろう。
それは相手と付き合っていく中でわかっていく事である。
つまりその相手と恋愛しなければ恋愛の仕方はわかるはずがないのである。

恋愛をする事は簡単で、それを維持する事や高めていく事が難しいと言うことだ。

維持する事すなわちそれが恋愛の仕方になっている。


2009.09.20

思いが叶うと言う事

いつもそばに居たいというのはどう言う理由が考えられるだろうか。
それだけ気持ちが癒されるということもあるし、居ないと不安が出てしまうということもある。

常に一緒に居ると安心だと思う気持ちの根底には相手を独り占めできるような錯覚が起こるのかもしれない。
しかし相手の身体は独占できても心を独占できるかどうかは疑問である。
存在というのは心も伴っていなければ意味を成さないはずだ。

よく例えに使われるように、美味しい料理があって毎日食べていても大丈夫と思っていても恐らくは永遠とは続かない。
それは必ず飽きが来ると言う俗物的な話ではなく、その味に慣れが来るからである。
どんな事であってもそれに慣れてしまうと当たり前になってしまう。
その料理の例えで言えば、美味しいと思ったその味がその味で当然となってしまう。
その味でなくてはならないと思った気持ちから少しずれてしまうのが怖いのである。

常に一緒に居たいと思っているならば、その感情は常に一緒に居れないから起こるものであって、完全に叶ってしまわない方が良いと言う事になる。
何日かに一度会えるならばその願いの一部が叶っているのであって、また気持ちを持続する事が出来るということになる。

では結婚はどうなのか?となるのだが、結婚と言う環境に身をおくと新たに色んな障害や発見などの変化に見舞われて、いつも一緒に居れると言うことだけに浸っていられないから心配しなくて大丈夫だろう。
相手が同じであっても、こには独身の恋愛と結婚してからの恋愛の違いが現れる。

ただし結婚してからもその叶った夢を持続するためには「当たり前」と言う曲者には注意しなくてはならないだろう。

2009.09.16

恋愛の聖地

人は恋愛に癒しを求める。
 
自分の癒される条件がそれぞれ違うから相手に求めるものも違ってくる。
「優しさ」と一口に言っても感じるものが違えば、その人にとって「本物の」ではなくなるものなのだろう。

癒される場所は当然のことながら居心地が良い。
しかし居心地の良さというのは身勝手なものでもある。

例えば一人静かに飲みたい気分の時はそう言う雰囲気のバーが癒される場所となり、賑やかに騒ぎたい時にはそう言う人達の集まるバーを求めるに違いない。

相異なるどちらの場所も居心地の良い場所と成り得るのである。

人は居心地の良い場所を捨てきれない。
ある場所で癒されていても、気持ちのあり方によっては違う場所でも癒される、むしろその時はその場所でしか癒されないからである。

恋愛は癒しを求める場所である限り、あちらで癒されまたこちらでも癒されると言う事があるのは否定できないように思う。
しかし本人もそれはどこかに違和感を感じているのだろう。

どんな精神状態であってもそこに行けば癒される、それが究極の居心地の良い場所であるはずだ。

人は恋愛にその聖地を求めるのではないだろうか。

2009.09.13

要注意人物

得てして不器用と言われる人は表現が下手なために誤解される。
思った事を率直な行動で表せないと言うことがハンディを負うことになる。
しかし俗にシャィだとか男気があるとか女らしいと言われる人でもその人を知ってからそう評するはずである。
そう言う人は言動からそれが読み取りやすいと言うだけで、不器用な人は言動からはすぐには読めないというに過ぎない。
もっと深く相手を見てみれば見掛け倒しの男気であったり、女らしさの欠片もなかったりすることもある。

逆に不器用な人は見せ掛けのポーズを作る事さえ出来ない、という事はその人となりはその印象からそう掛け離れていないという事でもある。
まずその人が不器用な人であるかを知れば誤解を食い止める事が出来る。

不器用な人でもそうでない人であっても、どちらにせよ短時間では本性は見抜きにくい。
しかし不器用な人に対しては不器用である事を知るだけで惑わされる事なく判断していけるが、そうでない人に対してはその言動から短時間の印象で先入観を持ちやすいと言う落とし穴がある。

恋愛に関しても不器用でない人の方が有利に映るが、選ぶ側からしたらより慎重になるべき相手となる。

では不器用でない人でなく、器用な人の場合は?

最も注意を必要とされる人物である。

2009.09.11

癒しの共有

好きな人を守るというのは、外敵からその身を守ってやる事だけを言うのではない。
その相手の気持ちを常に安心させてやる事が精神的に守ってやると言う意味に通じる。
癒されるという事は安心を通り越して心は高まっていける。
そう言う風な気持ちにさせてやる事こそが好きな相手を守るということに違いない。
なぜなら、守られる側からすれば何もしないでもそう思える事は不安と言うものに怯えることもなく、感情が荒立つ事もない。

しかし神様でも仏様でもない限りそれを完璧に成し得るのは難しいだろう。
ただ、そうしようと言う気持ちが感じられるならばたとえ完璧でなくても相手はそれを癒しと感じてくれるはずである。

相手が癒されていればその事で今度は自分が癒される。
これがお互いに繰り返されれば理想の恋愛だと思う。

男女関係なく、相手を守るということをこう言う風に認識していれば必ず自分が癒されるという結果になるはずである。

2009.09.08

同じ傾向の恋を選ぶ深層

ひとつの恋に破れ、こういう恋愛はもう止めようと自分に誓ってもなぜか同じような相手を選び、似たような恋愛をしてしまう。
よく例に挙げられるのは不倫体質とか依存体質とか言われるものだが、体質と言う表現は不適格なように思う。
その人の好みや惹かれるポイントにそう言う傾向があるということだろう。

不倫している人は不倫が絶対であるとか、依存してしまう人はそれが一番心地よいとは思っていないはずである。
どこかで不満や悩み、嫌悪さえ感じていると思われる。
ではなぜ繰り返すのか?

少し特異な形の恋愛をしている人や経験した人はよく普通の恋愛がしたいと口にするが、そもそも普通の恋愛と言うジャンルが存在するのだろうか。

どんな恋愛であってもそれぞれの悩みや願望が現れ、その現状に理想を上積みしていきたいと考える。
それが一人一人違っているだけの事であり、外から見てもその大きさや重要さは解からない。
自分の問題の方が大きく困難であると比較してしまうのは自分がその当事者であるがゆえんで、他人にとっての事の重さは秤が違うのである。

繰り返すと言うのは本人にとってその傾向の恋愛が気楽で過ごしやすい部分が大きいことに起因する。
ただその恋愛を理想とはしていないから理想の上積みの際に歪が出てくるのではないか。
つまり実際にしている恋愛と理想の恋愛のジャンルが違うから、理想の恋愛の部分を上積みさそうとすれば無理が生ずるのだろう。

土の地盤にコンクリートを詰め、鉄板や鉄骨を組み上げ、木材やセメントを積み上げる。実際の建物はそうやってできている。
居心地の良さを求めるとそういう現実は回避できない、それゆえ弱点もあり利点もある。
理想とはそう言うものだろう。

よく似た恋愛を繰り返す事の根本は、自分の恋愛に対する基本的な土台、基礎の部分がそれに由来しているのであって、一番重要視する要素がそこで満たされるからではないか。
つまり本人にとっては一番居心地がいいはずなのである。

2009.09.03

不安の払拭

どんな時でも新しい事をするのには不安が付きまとう。
仕事であっても生活であっても恋であってもそれは同じだ。
しかし期待や希望もあるに違いない。
気持ちの中でその不安と言う要素との陣地取りが行われている。
期待や希望の方が圧倒すれば何のためらいもなくなるはずである。

恋に失望している状態にある人の場合はすべての先が闇黒に見える。
恋愛の最中で楽しかった事は少なからずあるはずである。
それより苦痛や悲しみが多かったとしても、次に楽しかったことを増やせばいいだけのことだ。
一が二になっても仕方ないと言うのであればそれは欲でしかない。
二で不満ならそれ以上を望める相手を選ぶ事である。
恋愛に踏み出す前に結果を決めてしまうのは筋が違う。
所詮七も八も望めないわよと判断できるくらいの眼力があれば、望める相手を選ぶ力も持ち合わせているはずなのだ。

恋することそのものには果てしないパワーが秘められている。
恋愛に対して消極的なのは恋愛を否定するのではなく、その相手に期待が持てないと言うことで、更に言えばその相手を見極める自信がないということである。

もし恋をして、その相手が自分の基準に満たない相手だと感じたら妙な期待は捨てる事である。
そこからの我慢や苦痛は次の恋愛への踏み出しの足枷になる。

楽しい事を積み重ねていけば、これまでは苦痛や我慢であった事でもそう感じなくなっているかもしれない。
それは恋に対して余裕が生まれ、恋をこれまでより持続させてくれるに違いない。


2009.09.02

恋と別れの感情と理論

理論から入る恋より感情から入る恋の方が間違いなく強いものである。
恋の感情そのものに理論は無いからだと思う。

起こった事や行動には理論を立てて分析できる。
それは後追いの理屈なのである。
だから正解は自分が一番納得できるものを選択するに過ぎない。

感情は同じような気持ちが過去にあったとしても、時も違って環境も違えばすでに同じものではない。
その時その一瞬の感情は二度とないのである。
だから同じ相手が時を得て現れたとしてもまた恋に堕ちるとは限らない、堕ちないとも限らない。
再び恋に堕ちたならば過去に別れていた事が正解、もう恋に堕ちる事が無ければそれもやはり別れていた事が正解と言えるだろう。
つまり過去に取った行動はすべて正解と考えていけば後悔などしなくてよいのだ。

そう考えると別れを引きずる事はなくなるはずであるが、そうは行かないのが感情と言うヤツである。
理論を立てれば別れも納得がいき、感情はそれを簡単には許してくれない。
これが葛藤となる。

理論で解決できない感情を無理に納得させる必要はない。
理論は感情を鎮めるための鎮静剤であり、根本的に悲しみや苦しみを排除してくれる事は無い。
一瞬効いたようであってもまたぞろ痛みは顔を出す。
身体が自然に治癒していくように時間が必ず感情を鎮めてくれる。

感情と理論にうまく付き合っていけば、必要となる時間が短縮される事もありえるだろう。

2009.09.01

恋の見極め

恋と言うのは単純に人を好きであると言う気持ちである。
この「気持ち」であるがゆえに瞬間に消え去る事がない。

布に染み込んだインクは洗ってもすぐには落ちる事はない。
何度も水に浸して洗っていくうちに色は薄れて目立たなくなっていく。
それでも折り重なった糸の隙間に入り込んだインクが完全に消え去って元に戻ってしまう事もないだろう。
それはきっと消えない「想い出」に違いない。

気持ちを引きずる事は誰にもある現象で、その染み込んだインクの範囲や浸透の度合いによって、消えていくのには時間がかかる。
その苦しみに涙したり叫んだりすることは、まだ残る気持ちを洗い流そうとする行為である。

恋と言う感情はいとも簡単に生まれてしまうのに、一旦生まれてしまうとこれを消し去る事は簡単ではなくなる。
逆に言えばいとも簡単に吹っ切れたならそれは恋ではなかったと言うことだ。

改めて考えると恋の感情が起こる時、消し去ろうとする時のいずれも自分の意志では操作し切れないのである。
よく、もう恋なんてしないとか、恋するって気持ちを忘れたと言ってるのを聞くが、そんな事はお構いなしに突然沸き起こってしまうのが恋なのである。

恋を探している間は見つからないとよく言われるのは、おそらく突然と言うには相応しくないからではないだろうか。
ただ出会いが突然と言うものであるとは限らない。
すでに出会っている相手に対しても恋の感情が突然と芽生える可能性もあるわけである。

要するに恋は自分の未知の感情なのだ

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