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december 2007 posts

2007.12.31

年齢ギャップ

人それぞれ自分の好む相手の年代と言うものがある。
年代と言うよりは、恋愛可能と考える範囲の中での一番理想とする年齢の幅だ。
例えば20歳から24歳だとか30歳前後とか35歳を越えてないとだめだとか言うものだ。
それは自分の年齢も考査に入れて、最も話が合うとか、落ち着くという理由によるところが大きい。
つまり外見ではなく中身だということになるのだが、その時に実年齢とのギャップというものが非常に大きく作用する事がある。

仮に30歳前後がいいと思っている人がたまたま22、3歳の人と出あったとすれば「若いなあ」と先入観が先にたつ。
しかし実際に話してみたら、自分が理想とする30歳前後の人と変わらない会話ができたとなると、そのギャップが余計に魅力となる。
実際に30歳前後の人がその年齢の通りの魅力を持っている事よりさらに惹かれてしまう。
普段は往々にしてその若さの部分が出ている事もまた魅力に拍車をかける。

こう考えると、逆に実際に30歳の人が20歳の人と変わらない幼なさを感じさせる場合はどうなのか。
おそらくそのギャップはそれほど魅力として捉えられない気がする。
なぜなら、この例の場合の理想は30歳前後なのであるから、主役は30歳前後の方にある。
この場合は20歳が理想だという人に当てはまるギャップとなるのではないか。
つまり、自分の理想とする中身を中心に考えて、実際の年齢が大きく違っている場合にギャップの魅力を感じるのではないかなと思う。

では30歳前後が理想とする人が、それを感じさせる実際には40歳である人に出会った場合はどうなのか。
理想とする年齢や、上下のギャップ、男と女でも答えは違ってくるだろう。
年齢ギャップを魅力と感じる人だけに答えられる事かも知れない。

2007.12.27

「しあわせ」の根拠

「好き」と「しあわせ」とどちらを取る?
そう聞かれて、男は「好き」女は「しあわせ」を取ると思う、と答えた。

男は好きという感情が優先する、女はそれでも幸せになれるかどうかを見ようとする。

好きであるというだけで手に入れようとする男と、好きであることを後から追いつかせようとする女。
どちらが賢く、どちらがずるいのか。

好きであるという感情は変わる可能性がある、先に幸せの確信を得ていればそれは変わることは無いと考えるなら間違いだろう。
幸せの確信とは俗に女は愛されて幸せになると言う意味だろうが、その愛す側は男なのである。
男の感情が変わることも計算に入れなければならない理論になるはずである。

幸せの根拠をどこに持ってくるかにもよる。
もしそれが生活の安定だとか物欲の満足度なら話は別だが、そういうものは心を満たすものにはなり得ない。
それならば結局のところ、女は自分が好きである以上に相手から好かれている事を根拠にする。

女が自分の気持ちが「好き」であると言うことに走れば、男は離すまいとする努力や向上心を失いがちになる。
そして本来追うことに慣れていない女は疲れていく。
本能的に女はそれを知っているのかもしれない。
だから愛されて「しあわせ」になる方を選択するのだろう。

女がその選択を考え出す時は、年齢的に女盛りに差し掛かった頃が一番多い。
男からすれば「幸せ」にしてやれる事が最重要の条件となる。

2007.12.22

光と影

物に光が当たると影が出来る。
光の当たる方は「陽」で影側は「陰」となる。

恋愛を考えてみても陰の側ばかり歩いてきた人は恋愛に臆病になる。
恋愛にはどうしても楽しい事などが想像できないからだが、それはもっと厳密に言えば、恋愛をする相手に期待する事が怖いのだ。
つまり人に対しての疑心である。

恋愛そのものが楽しいであろう事は想像できるし、人から話を聞かされて羨ましく思うこともあるはずである。
気持ちが陰ばかりの恋愛ならしない方がいいと思い始めると、それよりももっと楽しいと思える事に気が向けられる。
仕事や友人や趣味などをより楽しもうとする。

こういう相手に恋をすると臆病な気持ちを言葉で解きほぐすのは難しい。
強引に陽の当たる場所を見せようと手を引いても、警戒心が先にたったままではその手は振り払われるだろう。
自ら足を運ぶ気持ちにならないと無理なのだと思う。

有効な処方としては、恋愛の状態に入る前に「陽」の部分を一緒に歩いてやる事だ。
強引に手を引く事は、自分と恋愛すれば見せてあげられると言う仮定が相手を尻込みさせる。
とは違って恋愛の状態に無い立場で一緒に楽しむ事で、恋愛しても変わりなくこれが出来ると宣言するわけである。

相手はことごとく期待を裏切られてきたのかもしれない。
恋愛以前に「陽」の当たる場所を一緒に歩く事は根気が要ることである。
「少し見せておけばいい」程度の軽い気持ちでそれをやったところで相手の心を恋愛に向ける事はできない。

疑心暗鬼な心にはそれを上回る強い恋心で立ち向かう覚悟が必要である。

2007.12.20

フェロモン

色気とフェロモン、日本語と英語の違いと言うわけでは無いようである。

どうすれば色気が出せるの?と聞かれることがある。
確かに男にも女にもあるものだろうが、しかし意識して出せるという類のものではないと思う。

色気については「大人の色気」とよく表現されるが「子供の色気」なんてものはハナから無いと信じて疑わない。
ではどこから大人なのか?
フェロモンは出せるのか?これも意識的に出せるとは思えない。
フェロモンと色気はどこが違うのか?

疑問符ばかりなので整理してみよう。

まず、色気と言うのは外見や仕草から感じる雰囲気であり、それは女なら『女性』を、男なら『男性』というものを意識させるものだと思う。
子供にそれがあるかと言えば、体型や物腰の妙に大人びた子供ならあると言える。
子供と大人の境目はここだと言うものは無い。
年齢を聞いて10代なら「子供」と称するだけであろう。
恋の経験や体験、挫折や喜びの想い出の少ない人でもこう言う色気は有り得るかも知れない。

対してフェロモンはどうか。
それを持つ異性には色気に加えて、性的な欲求を感じさせられる。
さすがに子供には感じられないものだろう、と言うのは年齢だけではなく恋の経験の密度が作り上げるもののように思うからである。

フェロモンは色気が土台にある、色気の伴わないフェロモンは無いが、フェロモンの無い色気はあると言うことだ。
色気・フェロモン、このどちらにしても意識的に出してやろうとしても、それはただの形態模写になるのみで、逆にわざとらしく映って見える。
そうなると逆効果なのである。

2007.12.19

浮気の防止

女の人は浮気の防止について、考え違いをしている部分がある。
「私は浮気させない」と言う根拠を聞いてみると、自分の方にのみ気持ちを向けさせて不満にさせなければ他に目が行かないはずだと言うものである。
例えば結婚しても家が一番楽しければ早く帰りたくなるし、他に気が移ることなど無いと思うのだ。

これは男には通用しない。
この根拠はさせる側も悪いと言う意味も含まれている。
男の理論からすれば全く別物である。
確かに不満があって他の女に気持ちが揺らぐと言うパターンもあるだろう、それは否定しない。
しかし不満など無くても良いものは良いのである。
不満があるからと言う考え方は、そのマイナスを他に求めるという事になるが、マイナスではなくともよりプラスを得ようとするのが男である。

女の人がバッグをデザインがいいとか可愛いとか一瞬で気に入ったとかの理由でたくさん持っているようなものだ。
男から見れば、その用途だけに合わせて揃えているとも思えない。
他のバッグに不満があるから別の物を買う訳でもないだろう。

浮気の防止には自分の感じる浮気のラインはここであるという事を明確に伝えておいて、それを越えたら断固別れる!くらいの意思表示をしておくくらいしかない。
実際にそれをやったら別れることだ、その上で本気で二度としないと言う態度が見えたら一度は許す事もあっていい。
大抵は順序を間違っている。
一度は許す、と言うのを先にしてしまうから男はまたやる。

ただラインを引く時に一方的に無茶を言わないことだね。
同じ事を自分がやっても良いという所で線を引けばいいのではないかな。

2007.12.15

一瞬の刺激

恋愛にスパイスは必要だと言い続けてきた。
スパイスとは一瞬の刺激であり、味わい続けるものではない。
マンネリする付き合いを打破するために、時々違った味を加えるだけのことだ。
それは相手の興味や好奇心や、時には猜疑心さえくすぐるものであるが、効かしすぎるとその刺激の部分のみが舌に残ってしまう。
そうなると逆に本来の味が消えてしまって、意味がないどころか不味くなる。
スパイスの種類の中によっては使うのに難しい物があるということである。
刺激物であるわけだから当然相手は刺激されることを念頭に置いておかなければいけない。
言葉として使うならば、相手の気持ちを一瞬だけ突付いて、すぐに元に戻す事を心がける。

相手を誉める、興味をそそる事を言うなら「あれ、本心かな?」と思わせたところで切る。
相手を下げる、怒らせる類の事を言葉にするなら「あ、腹立つなあ」と感じた所でフォローする。
どちらの場合であっても、すぐに本来の味に戻しておく事がスパイスの役割である。

2007.12.13

霧がかかると景色がかすんだようになる。
そのぼんやりとした情景が景色に哀愁の効果をかもし出す場合もある。

しかし心の中の霧はそうは言ってられない。
相手との距離をいつも身近に感じていたいのが恋だろう。
離れている時に相手が何をしているかと気になるのが嫉妬を生む元凶となる。
知らない事があればまずそれが気になり、ひとつ気にし出すと次々と連想してしまう。

例えば、昨日連絡が取れなかった、或いは連絡したが返事もないままだったと言う些細な事から自分の気持ちに霧をかけてしまう。
この気持ちを晴らそうとすると、相手に尋ねることになる。
友達と遊んでたと言う、これだけで実に明確な返答が返ってきても、今度はさらに友達って誰?どこで?と自ら霧を濃くしていく。
そして相手の答えが気に入らなければ怒りや嫉妬の霧に変えてしまう。

仮に百歩譲って、最初に連絡が取れなかった理由を聞く時点までは単なる日常会話の流れでよくある事だとしよう。
その次の、友達と遊んでたと言う返答で霧は晴らされているのだ。
さらに自分で新たな霧を呼び込む必要はない。
そこで聞くのをやめておけば、日が過ぎれば霧は薄れていく。
いつまでもその事にこだわるようなら自分のちっぽけさにまず気付く事が先決だろう。

相手の気持ちにまで霧をかけてしまう結果になってしまっては、今度はその霧はこちらの意思では消せないのである。


2007.12.10

羞恥心

いずれここで触れる事があるだろうと言って今まで延び延びになってしまった事がある。
[重要な要素とは]のところで書いた羞恥心についてだ。

羞恥心とは恥じる気持ち、恥じらいである。
しきたりや行儀や学問などは出来なくても知らずとも大した問題ではない。
気持ちの持ち方そのものに恥じらいがあるかと言う事の方がはるかに大きなことだと思う。

例えばこういう事は好きな相手の前では見せられない、と言うような事でも慣れてくれば平気になる。
しかし、それは最初の頃の気持ちを振り返ってみれば、相手が嫌だと思うんじゃないかとか、こういう事を平気でやるんだとか思われたくないと言う気持ちが働いているはずである。
相手に対する一種の遠慮ではあるが、もっと突き詰めれば自分に幻滅されたくないと言う緊張感である。
慣れがなぜそれを無くすかと言うと、そうしても許されるだろうとか或いはそれくらいは大丈夫だろうと思う油断である。
ひとつ許されるとこれもいいだろうと思い込む、そうするとあれもこれもと恥じらいがひとつも無くなってしまう。

先に書いたように気持ちの持ち方である限り、大事なのは許されるかどうかではないはず。
相手がここは恥じらいを持てよ、と思う項目は削除されたわけではない。「慣れ」に慣れてしまっているだけだ。

緊張感を持続させる気持ちが緩んでしまう事が恋愛の全てに於いて危険性をはらんでいると言う事なのだ。
相手に対して羞恥心を持っている事は絶対に必要なのである。

2007.12.07

終わらない恋

恋に終わりを告げるのは自分の気持ちにケリをつけることである。
そうしない限り、恋は終わらない。
恋愛には終わりはある。相手があってこその恋愛だからだ。
自分が相手を好きである限り恋であるはず。
恋愛が始まらなくとも恋はすでに始まっている。
ではどういう時にどこでケリをつけるのか。

振られたから気持ちにケリをつけられるなら、それはただ自ら望みを失っただけだと思う。
恋を続けている限り望みは捨ててはいけない、それはあまりにも寂しい事ではないか。
繰り返すが、恋と言うのは自分の気持ちなのである。
相手の気持ちを同じように求めるならその気持ちは持続できない。
求めるのは恋愛であって、自分の気持ちを求めるなんて芸当は誰にも出来ない事だろう。

好きだという気持ちが消えた時、それが恋は終わったと感じる唯一の瞬間なのではないか。
苦しいから悲しいから寂しいから恋は終わったと思い込もうとするのは、自分の気持ちから逃れたいだけなのだ。

それがわかるようになった時、きっと恋の素晴らしさがわかる。

2007.12.06

男の視点・女の視点

例えば女の方に趣味があって、それがお金が掛かるようなものだったとしよう。
ゴルフでも食べ歩きでも何でもいいのだが、男の方はそれをあんまり好んでいない場合、まず男はそんな事に時間とお金を使うなんて無駄なことをするなあと思う。
女の方は私が楽しいんだからいいじゃないとなる。
ここまでは価値観によるものだと思う。

そこで女の方がバイトなりパートなりしてそれに掛かる余計なお金を捻出する事にした。
ところが、そのバイトの職種や拘束時間なども男の気に入らないものだった。
女の言い分は自分で働いて自分の趣味に使うのにどうしてそういう文句を言うの?となる。
男はその分だけ余計に時間も無くなるし、俺の気に入らないことをするためにさらに気に入らない仕事をするなんて、となる。
こうなると視点の違いになってくる。

お互いに自分から見た視点なのであるから、見る位置が既に違うのだ。
自分の価値観を追うために必要だから自分のできる方法でやっているものにまで文句を言われても困るというのが女の視点。
俺が好まない方法を選ばなくても他にも選択肢はあるだろうというのが男の視点。

これは価値観のように認め合うという性質のものではなく、不満ながらも歩み寄るしかない。
ただ歩み寄るにも一本のラインになるまで寄らなければ、隙間があいたままではそこが溝になる。
この溝には不満が流れているのだからいつかは氾濫してしまう。

彼氏彼女の間柄でさえそうなのだから、これがもし夫婦ならさらにややこしい。
家計の足しにもなってるし、そこから余った分を自分の趣味に当ててるのよと言う女の視点と、趣味に当てるのが主目的で、余った分を家計に当ててるんじゃないかと言う男の視点である。

男と女が逆転している場合はそれほどにはならない。
今だに女は家庭を守るものという観念はある、間違いではないと思うがしかし実際には二人で守るものだろう、厳密に言えば女に任せているものであると言える。

それならば守ってくれている事に感謝する気持ちを含めて、ギリギリ譲れるところが歩み寄りのラインだろう。

2007.12.05

時間の共有

出会って最初の頃はデートする場所をあれこれと考えたり、探してみたりする。
本やネットで調べてみたり、人に聞いた所を下見したり、それは全て相手に喜んで欲しいと言う思いがあるからだ。
それも無しにただ教科書通りにやってるなら自分も楽しめない。
こうしておけば、或いはここに行けば相手は満足するだろう、感激するだろうと考えるのは自分の見栄や自己満足に過ぎない。

相手の行きたい所、興味のある所を聞いてみて、自分が知らない所だったなら二人で探せばいいのだ。
そこから既にデートはスタートしている。
どこへ行くかではなく、一緒に楽しめるという事が大事なのだと思う。

そしてたとえ会話の中ででも約束した事は早いうちに実行するべきである。
相手が忘れていてもそこで思い出せば嬉しく思うし、憶えていたなら実行してくれた事に優しさや感謝を感じることだろう。

デートの意義は楽しい時間の共有である。

2007.12.04

気持ちの評価

プレゼントを贈る時、その品物を選んだ理由を添えて欲しい。
そしてその言葉はなるべく短くまとめていて欲しいと思う。
くどくどと能書きなどを説明されてもうんざりされる事になりかねない。

プレゼントの価値は物の価値ではない、選んだ人の「気持ち」である。
理由が簡単明瞭であっても、その「気持ち」が伝わればいい。

理由は必ずあるはずである。
選ぶ時に自分の中で何かを基準にしているはずなのだから。
例えばピアスにしても、こういうデザインはあまり使っているのを見た事がないからでもいいし、財布にしてもこのブランドが好きみたいだからでいい。

こういう理由に意味があるのは、普段の会話やデートの時に自分の好みやセンスをよく見てくれている、話をよく覚えておいてくれていると感じてもらえるところにある。
物よりそういうところを評価される。
逆に言えば、それをやっていないとできないと言うことになる。

気持ちを評価する側もされる側も嬉しい、これこそがプレゼントだろう。

物の価値だけに喜んだり悲しんだりする相手なら、貴方に対する「気持ち」はその程度である。 

2007.12.02

感情の一致

男と女の友情を語ると、それは有り得ないと言う人も多いと思うが、では無いというなら一体どういう事になるのか。

まず、有り得ると言う根拠はこういうことになる。
人に対して大きく感情を二つに分けると好きか嫌いになる。
単純に言えば、嫌いな相手と友人になる事も無いし、恋をすることも無い。複雑な経過で反転する事もあるが、一般的にだ。

相手を好きと言う感情の中で恋と呼べるのは、相手の日常や言動、普段は側にいない事などが気になる存在であることだ。
そうではなく、会っている時、話している時間は楽しく貴重だが、平常は特にその相手の事も気にならないような存在が友人だろう。
その相手が異性であっても不思議は無い。
この場合、お互いがそう思っている事が条件となる。

こう考えると、異性間での感情は好きか嫌いに別れて、好きの内でさらに恋を出来るかどうかに別れる。
相手を異性として見ないと言う事は、嫌いと同意語ではないのであるから、好きの中に存在していてもおかしくない事になる。

異性間で友情は有り得ないとするならば、男と女には嫌いか恋しか無いという事になる。
端的に言えば、嫌いな男(女)以外はすべて恋の対象となりうるという理論になってしまう。

ただ、友情が確立する前にどちらかが恋の感情を持ち始めて、友情と言う関係が崩れる事はある。
有り得ないと言う人はここを強調するのだろうが、それが必ず起こるとは言い切れない。
崩れなかった時にはそれはどういう間柄だと言うのだろうか。

男女間の友情は確率的には少なくとも、有り得ると言う方を支持したい。

2007.12.01

沈黙の制裁

例えば相手の浮気を見つけたら。
いや浮気と言うより、自分の許せる限度を超えてると思われるような行動が見えた場合、と言うべきか。
不快感を感じる限界点は人によって違うからそういう表現になるのだが。

現場に遭遇したら、相手もさすがに言い訳は出来まいが、そのような素振りが見えたがはっきりとした確信が無い時などはどうするのがいいのだろうか。
感情的には、問い詰める・食って掛かりたいところだ。
そうすると相手は反省よりも先に言い訳や逃げに走る。
それが口論となって喧嘩になる。

相手にとって感情的に食って掛かられる事は、喧嘩にするという最終的な逃げ道を用意できるのである。
はっきりとした確信が無いのだから、最後は何も解決しないまま喧嘩の終結にエネルギーを費やされる事になる。

では、無駄な喧嘩をせずに反省を促す方法は。

こういう事を発見しました、こんな疑惑がありますと相手に直接的に問い詰めることより「私はそれに気付いてます」と知らしめることが肝心となる。
そしてここが我慢のしどころだが、その事については黙っておくのだ。
見逃すのではなく沈黙することである。

相手にとっては気付かれてる様子なのに黙っていられる事は脅威である。
口論してしまうと、そのやりとりの中でどこまで知ってるのかを探られる。
沈黙されると探りようが無い。
そして相手の怒りがどのくらいなのかもわからない。

それで全てが解決するとは言えないが、相手に危機感を与える事はできる。
少しは自ら反省する機会を与えることにはなると思う。

黙っているのをいいことに、全くそういう素振りも見えない相手には三下り半を突きつけた方がいいのではないかな。

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