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november 2007 posts

2007.11.29

喧嘩の回避

恋愛中に喧嘩することは全てがダメだとは言わない。
喧嘩の原因は些細な取るに足らないような事が多いのではないかと思う。
しかし、だからこそそういう喧嘩であればどうってことは無い。
些細でないような事が原因ならそれこそ大ごとだからだ。

感情がヒートアップしている時は、つい相手の嫌がるところを攻めてしまう。
そこで相手の人格や親縁関係や過去の痛みに触れる事があっては、これはもう喧嘩の範疇を越える。
つまり暴力に等しいことになる。

これをやってしまうと傷口は元に戻る事は無い。
平手で殴ったものは赤く腫れても元に戻るが、凶器でつけた傷は塞がっても跡が残るのと同じである。

その禁じ手さえ使わなければ喧嘩くらいは大したことは無い。
大抵の人は無意識でもそれは心得ているはずである。
と言うことならば、頭に血が上っても100%理性は飛んでいないことになる。10%の冷静な部分もあるということか。
であれば、もう少しそこを高めて20%にすればどうなるか。
カッとなって相手を罵倒する前に止まるかもしれない。

喧嘩の回避は相手の言った事を頭の中で復唱する呼吸だ、そこで回避できずに始まってしまえば、自分の言った事をどこかで復唱する。
そして早いうちに打ち切る勇気だが、早い話が先に黙った側が実は勝ちなのだ。
言い続ける方が疲れるはず、黙って聞く方に回れば先に冷静になれる。

どうしても聞けなければ、その場を離れる事だ。
ほとんどの場合は間が空けば思考力が平常に戻る。

もっと冷静なパーセンテージを高めるなら、最初に謝ってしまえばいい。 それが自分に非がなくてもだ。
なぜなら、そうする事で相手の熱を下げる役目をするからである。
そうなればそこからは「話し合う」と言うポジションに移行するからである。

喧嘩にならないと言うのはそういう手段をどちらかが、或いはどちらもが知っているからだろう。

付け加えておくと、暴力に走るのは論外である。

2007.11.28

束縛の権限

相手を束縛したくなるのは嫉妬や独占欲から来るもので、その根源に自信や信頼というものが絡むことは何度も書いた。

される側も多少はそういうことがあっても好かれると思えば心地よくもあり、ある種の優越感に浸れる。
しかし度が過ぎてきても、される側には相手を納得させる以外に手はない。

信頼はともかく、自信が即座に身に付くとも思えないので、束縛する側は我慢する事から入るしかない。
相手の行動に対して「自分は嫌なのだけれど認める」と言う訴えの姿勢を示す。もちろん好意的にだ。ここが我慢なのである。
相手は認めてもらったとは言え、本来は嫌なのだなと言うことは気持ちのどこかに残る。
そうすると今度は、同じ事をしていても自分で制限したり控えたりするようになる。
もちろん自分のストレスの溜まらない範囲でである。

どちらも言葉で言えば「我慢」であるが、これは「譲歩」なのだともいえる。
恋愛している限りは、この譲歩は必要なことだろう。

無理強いしなくても、気持ちを伝えることで相手は何か事があるとその気持ちを思い出す。
それだけで充分束縛になっている。
恋愛することに於いて「束縛」はオプションではなく最初から備わっているものである。

全く好き勝手して、相手の事も構わないし我慢もしないというのであれば、それは恋愛の状態に無いのに等しい。

Part Ⅱ 予告

ここまで恋愛の男女間の心理について解説まがいの事を書いてきました。
書き損じた事を思い出せばその都度語っていきますが、ここからは今までの分析の具体的対処法を綴っていきます。
これも今までと同様、これが正解と思い込まないようにして下さい。
あくまでこういう分析をしたんだから、こうすればいかがか、と言うお伺いです。
そしてすべてNagare論です。
反論も同意も遠慮なく書き込んでください。

明日からの よ・る・び PartⅡをよろしく。

まず最初は「束縛」がテーマです。

2007.11.25

可能性の価値と罪

告白の経験は誰もが一つや二つは持っていると思うが、もちろん断られた経験もあるだろう。
その誰もがその時に知りたいのは言うまでも無く「理由」である。
はなっから大嫌いな相手に告白された場合などは、断るのもストレートだと思う。
それはそんな相手にどう思われようが構わないと言う気があるからで、相手への気遣いが無いから問答無用なのだろう。
そうではなく、良い人だし傷付けけたくないと思う相手の場合が悩みどころだと思う。
例えば「顔が嫌いだから」と言われたら、整形技術が発達しているとは言えそこまではしないだろうから、どうしようもない。 年齢とか血液型等もしかり。
だが、「服装のセンスが合わない」「趣味が違う」と言われれば、それは誰が考えても合うように出来ることであるからそんな理由では断らない。

落とし穴は相手を気遣ったつもりで「今は恋愛に気持ちが向かないから」と言うような断り方である。
それは服装の場合と同じく、可能性を示唆している事になる。
相手にとっては一時的な落胆があっても、希望を持てる返答なのだ。
実際に、今は無理でもそういう時期がくれば有り得るかもと言う場合も同じ返答になるはずである。
言われた側からすれば可能性は価値があり、実際には無い可能性を見せる事は言う側の罪になると言うことだ。

余談になるが、断るのに「何となく」なんて答をされると地獄に落されるようなものです、と言うかそんなヤツに告白するなって話ですが。

2007.11.24

感情を持つ星

たまに「新しい惑星が発見された」とかの報告がニュースになる事がある。
こう言うのを聞くと、あの無限の星の中でよくまあそんなすごい事が出来るものだと感心する。

そういう事と比べるのも何だが、自分の住む星で自分の理想にぴったりの相手を探すのはどのくらい難しいのだろうか。
毎日ずっと星を観察しているように四六時中相手を探しているわけにははいかないから、これも至難の業だ。
ましてや理想なんていうのは偶像だから、その通りの相手が現れることはまず無い。理想に近いとでもしておこう。
ただ星と違って相手も動いているから、同じ場所へ行っても偶然発見する可能性もある。厳密に言えば星も動いているのだが。
発見することも簡単ではないが、それにも増して、やっと見つけたとしても星のように名前を付けてもらって良かった、と言う風にはいかない。
むしろそこからが感情を訴える勝負になる。
星とは違って、相手も感情を持った人間なのである。

そう考えると、好きな相手に出会い、恋愛をしている人はすごく価値のある事をしていると思う。
ただし相手も同じように星を探していたんだという事をお互いに忘れない事だ。
そうしないと、自分が相手の探していた星では無かったと評価されることもあるのだ。

2007.11.20

対等の解釈

恋愛をするということは相手と対等である事が前提である。
社会的な立場や年齢などによってその位置が決められる事は無い。
位置関係は外から見える印象とは違って、二人の間の気持ちのやりとりに重きを置きたい。

対等であるには自分にも素直である事が望ましく思う。
妙な遠慮や気遣いは逆に違和感を与えてしまうし、自分も疲れる。
何も思った事を抜け抜けと言いたい放題でいいと言っているのではない。
自分の視点から感じた感情を相手に伝えて、それを分かち合えるかである。
人の感じ方や考え方と言うものはそれぞれ違うという事を認め合いながらコミュニケーションをとる。

言葉で書くと固くなるが、とどのつまりが、相手が思って伝えてくる事に対等な気持ちで応えられる事が大事なのだと思う。

感情には上下関係は存在しない。

2007.11.17

天真爛漫

天真爛漫と言う言葉に魅力を感じる。

自分が主体の自由奔放とは少し違って、周りの人達もを引き込んでいくような力がある。
ひとつ間違えれば誤解を受けそうな生き方であると思う。
恋をする姿勢としては使いにくい言葉だ。
自由奔放な恋とは表現しても、天真爛漫な恋とはあまり言わないだろう。
どちらの場合にも共通するのは、その受ける印象からは想像しにくい確固たる芯の強さがあることだ。
何の芯も無い優柔不断とは、同じように見えても雲泥の差がある。

天真爛漫な恋をあえて解釈するなら、恋愛の「恋」ではなく、純粋に人を好きになれる「人に恋する」と言う部分が大きいのだろう。
逆に言えば、恋愛の「恋」に限定されると不得手なのかもしれない。

2007.11.10

継続の要素

会いたいからこそ会いたくない、この不可思議な心理は何か。

好きな気持ちが大きくなれば、当然のように相手の事を思い浮かべる事が多くなる。
そして相手の事を考え出すと、すぐにでも会いたいとなる。
毎日でも、時間のある限り会っていたいと言う気持ちになるのも当然だ。
お互いのテンションが上がっている時には、それが楽しく嬉しいに違いないから、毎日続いても満足感を得る事が出来るだろう。
しかし、常に満足感を味わっていれば人はそのことに鈍感になる。
会うのが当然のようになってしまえば「会える」と言う喜びが薄れてしまう。
自分のテンションで物を計れば、自分だけが下がったような罪悪感を生み、相手への遠慮からそのサイクルを変える事をしにくくなる。
その結果、相手のテンションまで下がればやがて惰性になってしまう。
その事を知っていれば、会いたい気持ちが常にあってもその気持ちを持続させることの重要さに気付く。
だから会いたいからこそ会いたくないのだ。

会いたくないのは、会えない分の喜びをより一層感じる事が出来るからなのである。
満足してしまえば充実感の後に必ず慢心が訪れる。
もどかしさも継続のための重要な要素なんだろうと思う。

2007.11.08

相反する確率

1%の可能性で手に入るものと90%の確率で手に入るものを選ぶとしたら、何を基準に選ぶだろうか。
楽がいいとするなら後者だが、手に入るものが同じならともかく、違うものならそう決まったものではないはず。
単純に言えば選ぶ基準はどちらが欲しいのかである。
それは物の世間的な価値ではなく、自分にとっての価値が重要なのである。

恋に於いても、簡単に手に入るものを選んでも、後々まで大事にするという事をおろそかにしそうな気がする。
どうしても欲しかったんだと言う執着心に欠けるから、失ってもそれほどの痛みを感じない。
低い確率の恋は追う意欲を駆り立てる。 その意欲は人にパワーを生み出す。
考える事、想う事、苦労する事、挑戦する事は必ず人の経験値と能力を高めるはず。
その想いが相手の価値をさらに高めることになる。
最終的に手に入れる事が出来なかった時には人は落胆もする。
しかしやるだけの事はやったという充実感がそれを上回れば立ち直りも早い。

結果を考えて最初から確率の低い恋に挑戦しないのでは、手に入れる恋には不満が付きまとう確率が高くなる。
どちらの確率を選びますか。

2007.11.07

潜む不安

恋愛をしているにも拘らず、その恋に不安を覚えるという事を女の人はよく口にする。
おそらく一気にテンションが上がっている時には感じなかったはずだ。
少し付き合いも落ち着いてきた頃にそういう時期がやってくる。
その時期とは、その恋、その女性、その相手と、色んな要素があってのことであるから、いつとは決まっていない。
しかし、何が不安という気持ちを起こさせるのか。

女が不安をふと感じる時、その恋の行く先をみる。
「この人とずっと一緒に居て、私は幸せになれるのか」或いは「一緒にやっていけるのだろうか」と言う将来の姿だ。
そう考えるという心の深層には「結婚」にたどり着けるのかと言う漠然とした恋の結果に求める固定観念があるのかも知れない。
そのさらに先には「結婚したら幸せになれるか」と言う考察に入ってしまっているとも言える。
男のように、今現在の恋を純粋に楽しめば不安も無いように思うのだが、女から言わせると男の身勝手なのだろう。
結婚を照準にしてしまうと、恋愛できるのはたった一人の相手になってしまうとも思うのだが、これも身勝手な理論だろうか。

この先壊れるような事があってもいいではないか、それが恋愛だ。
ただ女性は男性以上に自分の年齢に対して敏感でることも、「不安」という気持ちを生み出す一因になっているのだろう。

2007.11.04

無言のプレッシャー

女を束縛しすぎると窮屈に感じだす。
心配しているんだ、と言う言葉はごまかしに過ぎない。
心配とは女の事を心配すると言いながら、実は自分に対して自信が無いから心配になるのだ。
自分から気持ちは離れない、と言う自信があればその心配は不要である。

放ったらかしとは違うのは、それだけお前を信用してるんだぞと言う事を日頃の言動で示しておくところにある。
女に無言のプレッシャーをかけておくわけだ。
女は自分が愛されているのを感じている間は、よほどの浮気性でも無い限り他には行かない。
もしそれで他の男に転んでもそれはその程度の女という事だ。
逆に言えば、最初からそんな事を心配するのはその程度の女と見ている事になるわけである。

女はそれを本能的に知っている。
女が自分を想ってくれていると感じる程度の心配は、心地よく受け入れてくれるが、心配しすぎる事は男の自信の無さを暴露する事になる。
相手にプレッシャーを与えるためには、自分がそれだけの事をしていないとできない。

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